『痕跡』 上巻


(1)

 俺は××駅で降りて、兄の家に向かってゆるやかな坂を歩いていた。
 地元ではまだちらほら雪が残っているというのに、東京はすでに春の陽気に包まれている。まだ数回しか通ったことのない道なのに、これから何度も歩くことになるのだなと考えると、昔からここに住んでいたような親しみを覚えた。
 四月から、東京の××区にあるスポーツジムでインストラクターとして働く。内定は半年以上前にもらっている。短大の卒業式はまだ先だったが、春休みのうちに引っ越しを済ませることにしたのだ。
 五分ほど道なりに歩くとT字路で突き当り、そこを右折してすぐ左手に兄の住むアパートのこぎれいな建物が現れた。IT系の仕事をしているということしか知らないが(具体的な業務内容は、何度聞いても興味がないから忘れてしまう)、なかなか稼ぎが良いらしく、それなりに広い部屋に住んでいる。出費を抑えるために、最初の一年だけという約束で、兄の家にお世話になることになった。
「おーい、兄貴」
 インターホンを押しても反応がない。この前に東京に遊びに来た以来だから、会うのは約三か月ぶりになるのか。スマホで電話を掛けようか迷っていたら、ガチャリとドアが開いた。
「おう、来たか」
 玄関から現れた兄の姿に、俺は言葉を失ってしまった。
 シャワーを浴びていたのだろう、ボクサーパンツ一丁で濡れた頭にバスタオルを被った兄は、前に見た時とはおよそ別人に思えた。こちらが見上げなければならないほど背が伸び、一回り、いや二回りもガタイが大きくなっている。そこにいるだけで迫力があった。
「あ、あにき……?」
 間を置いてポソリと呟く。俺は、目前にいる男がほんとうに兄なのか、不安のあまり嘗め回すようにジロジロ見つめた。顔立ちは紛れもなく兄のそれだが……。
「突っ立ってないで上がれよ」
「え? あ、ああ――」
 変わったのは体形だけではない。目に掛かるほど伸ばされていた髪はアップバングの形に刈り上げられ、表情からは俺の知るどこか自信なさげな優しい雰囲気が消え、堂々として男らしい、だがどこか薄い不機嫌の中にいるような冷たい雰囲気をまとっていた。
 リビングのソファに腰を下ろして視線をぼんやりと窓の方へ泳がしながら、俺は手のひらに汗を握っていることに気がついた。夢ではないよな、と自分が座っているソファの柔らかい感触に意識を向ける。
 洗面所でドライヤーで髪を乾かす音が聞こえ、しばらくして兄は迷彩柄のパーカーとダメージジーンズに着替えて台所に立った。
「お前ってコーヒー飲めるんだっけ?」
「飲める!」
 俺はなぜか力強く答えていた。兄はふっと鼻で笑い、「ああ、そう」とインスタントコーヒーの粒をコップに注いだ。兄は俺の前にコップを置くと、テーブルを挟んだ斜め前の椅子に足を組んで座り、テレビのリモコンの電源を押した。あまりにも兄が当たり前のように振る舞うので、自分の方が何かを間違っているんじゃないかという気がして、疑問をぶつけるのを一瞬ためらう。
「……兄貴、変わったよな」
「そうか?」
「何だよその筋肉、ヤベーって。成長期かよ」
「ああ、」兄は思い出したような、しらばっくれたような顔で答える。「俺も最近ジムで鍛え出したからな」
「いや、ありえねーだろ……」
 椅子に座った兄を、改めて頭のてっぺんから爪先まで観察する。俺は中学三年の頃から今までウエイトトレーニングに励んでいたから、ただひたすら勉強に打ち込んでいた兄よりはずっと筋肉があり、記憶が正しければ、身長だって俺の方が少し高いくらいのはずだった。
 それが、どうしてこうなったのか。今の兄は200センチ近くは背丈があるだろう。サイズの大きな厚手のパーカーを着ていても筋肉の盛り上がりがはっきりと主張するほどで、三年近くトレーニングを重ねている俺でも到底及ばないような圧巻のデカさだ。それが、三か月でこうなるなんて……。ありえないとしか思えなかった。
「実際こうなってんだから、ありえないってないだろ。たまたま俺に素質があったってことだろ?」兄は冷たく笑い、隣に座って俺の背中をポンと叩いた。「お前だって充分すげえ身体してんじゃねーか。な?」
 香水でも振っているのだろうか? 兄が近づくと、ふっとノウゼンカズラの蜜と似た香りが鼻を掠めた。性欲をくすぐられるような甘い匂いだ。
 それにしても、何が「な?」だ、俺はまるで納得できていない。しかし、この納得できないという気持ちは、兄の変化が信じられないということなのか、俺が兄に嫉妬や羨望に近い感情を抱いているからなのか。兄に対し、自分に対し、もやもやした何かが残る。
「引っ越し業者が荷物届けてくれんのは明日だっけか?」
「あ、ああ、」
「じゃあ今日はお前も暇だよな。どっか出掛けるか」
 そう言って兄は立ち上がる。全く乗り気がしなかったが、腹が減っていたからとりあえずついていくことにした。何が食べたいかと聞かれ、何もないと答えたら、近くの百円均一の回転寿司のチェーン店に連れていかれた。
「何か、兄貴と外食すんの久しぶりだな」
「そうかもな」
 他愛もない会話を交わしながら遠慮なく寿司を胃袋に詰め込んでいった。俺は20皿を超えた時点で腹が苦しくなったが、兄はまるで流し込むようにあっとういう間に50皿も平らげてしまった。テーブルに積み重ねられた皿の山並みに圧倒され、「そんなに食って腹壊すんじゃねーの」と兄を心配して声を掛ける。
「そうだな、これくらいに留めておかねーと、金が掛かってしょうがねーからな」
「…………」
 これくらいに留めておかないと、ということは、本当はもっと食べられるが我慢している、ということだろうか?
 そもそもそんなに食べる方はでなかったはずだ。実家で一緒に暮らしている時は、俺よりたくさん食べることなんてほとんどなかったじゃないか。常人離れした量を食べる兄に、何か得体の知れなさを思った。

 俺は歯ブラシを買いに一人でコンビニに向かった。さすがに東京でも夜になるとちょっと寒いくらいだ。俺は足早に店に入り、雑誌の並んだ棚の前をよぎると、「都市伝説が現実に? 残虐な××区連続殺人事件に共通する《獣》の痕跡」という白抜きの大きな文字で書かれた週刊誌が目に飛び込んだ。
 そういえば、アレって、この辺りから少し離れたところで起きてるんだよな……? 思い出すと激しい怒りに駆られ、手が震える。俺は昔から、残虐な殺人事件について聞くと、そんなことをする奴は絶対に許せない、殺してやりたい、という、強い怒りを覚えることがあった。俺自身、自分で制御できない怒りの大きさに戸惑っていた。自分とは全く無関係な人たちのことなのだから、時間が経てば自然と忘れていくのが普通らしい。しかし俺はそういった事件を聞くたびに、まるで自分のことのように激情を抑えられなくなってしまうのだった。
「おい、何があったんだよ? 人でも殺しそうな顔してるぜ?」
 家に帰ると、よっぽど俺は険しい表情をしていたらしい、兄は笑いながらそう言った。「はッ」と俺は言って兄の前を素通りして洗面所に立った。シャワーを浴びてから歯を磨き、リビングのソファに横になった。俺の布団はまだ届いていないから、ここしか寝る場所がなかった。
「疲れたから、もう寝る」
 俺は兄をリビングから追い出して電気のスイッチを消した。真っ暗な中で、スマホでさっきの事件について検索する。苛々するなら調べなければいいのに、とは思う。
 俺はまるで不快なことに向かわずにいられないように残虐な事件について調べてしまう。連続殺人兼の遺体に共通する、「肉食獣に食いちぎられたような痕跡」について読んでいるうち、しかし俺は眠りに落ちていた。
 目を覚ました時、まだ部屋は真っ暗だった。
「んッ……ァッ……!」
 壁越しにくぐもったうめき声が聞こえ、うるせえな、と舌打ちをして上半身を起こす。スマホで時計を見る。まだ深夜の1時だ。寝返りを打ちふたたび眠りに就こうとしたものの、兄の部屋から苦しそうな声に邪魔されて目が覚めてしまう。
「ガアッ……ガッ、アアッ、アッ!」
 その異様な叫び声に、これはちょっと様子がおかしいのではないかと不安になった。寝る前に「絶対に俺の部屋に入るんじゃねえぞ」と釘を刺されていたものの、何かの発作だったら取り返しがつかない。俺はソファから下りて、台所を過ぎ、そっと兄の部屋のドアを開けた。
 月が明るかった。カーテンの開け放された窓から薄白い月光がフローリングの床に射している。部屋にはノウゼンカズラの蜜と似た、どこか性的なあの甘い匂いが満ちていた。嗅いでいるだけで軽く勃起するほどムラムラする。何なんだ、これは? Tシャツとパンツを着ている兄は、ベッドの上で身体を繰り返し捩っていた。ベッドのシーツを握り締め、歯を食い縛って威嚇するような低い声を上げている。大丈夫かと声を掛けようとした時、俺は思わず足を止めた。
 兄の股間のイチモツがギチギチに勃起しているのが見えたからだ。それは腹とボクサーパンツのゴムに隙間ができるほどの立派な大きさだった。もうイッた後なのか先走りなのか分からないがパンツは精液でぐちゃぐちゃに黒く濡れ、部屋に入るなと言われていたこともあり、俺は見てはいけないものを見てしまったという罪悪感に逃げ出したくなった。
「フゥーッ、フゥーッ、」
 兄はビクビクッと腰を震わせたかと思えば夢精し、パンツを貫通して盛大に飛び散った。いったいどれだけ溜め込んでいるんだと思うほどの量を断続的に放出した。
 何も見なかったことにしよう。俺は足音を殺しながら部屋から逃げ、兄の精液の飛び散ったスウェットの上着を脱いだ。ティッシュで精液を拭って洗濯物入れに投げ込もうとして、そこからふっとあの甘い匂いが膨らむのに気がついた。あの匂いは兄の精液のそれだったのかと思うと、興奮した自分がひどく気持ち悪いものに感じられた。

(2)

 兄のアパートで暮らし始めて一週間が経った。引っ越し作業は完了し、俺は和室を自分の部屋としてそれなりに快適に生活を送っていた。初日の夜に見た兄のことを除けば、母親にあれこれ指示されないだけ実家よりよっぽど楽だ。
 兄は深夜になると呻き声を上げる時もあれば、逆に全く物音がしない時もあった。どうやら日によるらしいが、一体それが何を原因としているのかは知らない。兄にそれとなく詮索してみたものの、「寝相悪いからなあ、俺」という頓珍漢な返事があるだけだった。
 リビングで朝食を食べながらテレビを見ていると、三日前にまた近所で起きた惨殺事件についてのニュースが流れた。また頭のぴりぴりするような苛立ちを覚える。兄はそんな俺を馬鹿にするかのように薄笑いを浮かべ、「なあ、」と言った。
「何だよ」俺はむすっとしながら答える。
「これ、たぶん快楽殺人だよな」
「そうかもな。マジで許せねえわ。そういう奴は死ねばいいのに」
「例えばの話、お前の身近な人間が犯人だったらどうする?」
「は?」俺は兄の目をじっと見つめた。「関係ねえよ。死ねって感じ。ていうかそういう奴は俺が殺してやりたい」
「へえー、やっぱお前はそうなんだ」兄は相変わらずにやにやしながら言い、俺はその見下したような態度にムカついて立ち上がった。「なあ、人殺す時ってどんな感じなんだろうな?」
「知るかよ」
 一緒にいる時間が長くなれば長くなるほど、俺が知るかつての兄だとは思えない言動に困惑することが増えていく。しかしそれらを不気味に思いながらも、男らしい逞しい肉体になった兄に対する尊敬の念もまたあった。
 はっきり言って、今の兄は理想の姿だった。
 三年前の俺は、クラスメイトからからかわれるほどガリガリに痩せていた。そのコンプレックスから筋トレを始めたのだった。
 兄が仕事に出掛けた後、俺は兄に勧められたプロテインを飲んだ。一般には売られていない特別製らしく、真っ黒な大きなボトルに入っているだけの白い粉末だ。詳しい話は知らない。ほんのり甘みがあるだけのプレーンな味だ。これを飲めば早く兄のようなカッコいい男に近づけるかもしれないという一心で、筋トレの前後にこれを飲み続けている。
 ただひとつ、このプロテインを飲み始めてから困ったことがある。不思議と性欲が旺盛になってしまうのだ。飲んでしばらくすると腹の底からエネルギーが湧き、同時にひどくムラムラしてしまう。本当はジムでトレーニングをしたいが、そのせいで家の中でしなければならなかった。
 今日も俺はこっそり兄の部屋に入って筋トレをした。本当は、入るなと言われていたが、懸垂用のマシーンが置いてあるので、せっかくだからとこっそり使わせてもらっている。
「はァ、またかよ」
 懸垂を繰り返していると、今すぐヌきたいという頭のかっかするような感覚とともにチンポがムクムクと起き上がる。駄目だ、一回抜いてから筋トレしよう。気になってやってらんねえ。その時またノウゼンカズラと似た甘い精液の匂いが鼻を掠め、その性的な興奮を掻き立てる匂いに導かれるように俺は兄のベッドに近づいた。
「はっ、どうしよ……」
 シーツの染みついた兄の匂いを嗅いでいるうちにチンポは大きくパンツを盛り上げ、ヒクヒクと糸のような先走りを滴らせた。最近はお気に入りのAV女優の動画だけではなぜか射精に至ることができず、それがどういうことか、この匂いでは興奮してしまう。
「どうしちまったんだよ、俺は……」脳裏に兄の逞しい身体がよぎり、パンツを下ろして勃起したチンポを握って扱くと、あっという間にイッてしまった。


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