『鏡』 下巻


「――うッ!」
 頭の後ろに衝撃を食らって、目を覚ました。
「おい、お前、どんだけ寝れば気が済むんだよ」
 布団から頭を上げて振り返ると、吉彦が苛立たしげに俺を見下ろしていた。手で叩かれたところが鈍く痛む。
「あ、れ……?」
 周囲を見回すと、そこは吉彦の部屋だった。
 目のちかちかする蛍光灯の青白い光も、カップラーメンの容器や空のペットボトルで一杯の台所も、ベッドの近くに口を結ばれたゴミ袋が三つ置かれているのも、何も変わらない。食べ物の腐り始めた臭いだってそのままだ。
 どういうことだ……?
 今までのことが全て、夢だったっていうのか……?
「嘘だろ――」
 生々しいヤンキーの死体、狼男と化した吉彦、そして快感のタガが外れるような変身の瞬間。そのすべてが夢だったなんて……。
「なあ俺、いつから眠ってた?」縋るように吉彦に尋ねる。
 どこまでが現実で、どこからが夢なのか。
 自分の記憶が当てにならないのが怖かった。
 大学の帰り道で相談があると誘われ、アパートまで来たのは確かなのだが……。
「何言ってんだ? 忘れたのか? お前、俺のアパートに来ただろ。それで飲み物でも入れてやろうと思って台所から振り返ったときには、ベッドにもたれ掛かって眠ってたぜ」吉彦は目を細めて顎をしゃくった。
「…………」
 思い出せなかった。吉彦は嘘をついているのかと疑った。
「お前、授業中にも居眠りしてたよな。何回呼んでも全然起きねえし、よっぽど疲れてるんだと思ってしばらくほっといたが……。多眠症とか、そういう病気ではないよな?」
「あ、ああ……。大丈夫。ごめん」
 俺はモヤモヤした気持ちを抱えたまま、適当にその場をごまかした。
 窓の方に視線を泳がす。すっかり外は暗くなっていた。ポケットからスマホを取り出すとすでに午後九時を過ぎている。確かアパートに辿り着いたのが六時頃だったから、もう三時間以上も眠っていたことになる。
 俺はテーブルの前に座り、吉彦が用意してくれていたコーラを口にする。炭酸が抜け、ただの甘ったるい飲み物になっている。立ち上がり、台所の蛇口に口を近付けてがぶがぶ水を飲んだ。
「今日は俺んち泊まってけよ。もう遅いだろ」吉彦は言った。
「いや、いいや……」これ以上迷惑を掛けたくないという気持ちが働いた。
「明日休みなんだからさ。それにお雨、俺の相談聞いてくれるってうち来たんじゃないのかよ? 何も聞かないで帰っちまうとか、酷いだろ」
「そう、か……。そうだな。分かった」
 吉彦の顔を見て、俺はその言葉に甘えることにした。

 俺たちはコンビニで夕飯を買い、アパートに戻って一緒に食べた。
 吉彦はトンカツ弁当だけでは足りないらしく、惣菜パンを三つも平らげ、更にはチョコケーキとプリンまで食べ始めた。さすがと言うべきか、体つきががっちりしているだけあって大食いだ。前々から知ってはいたが、改めて見ると感心してしまう。
「そんなに食べて気持ち悪くならないのか?」
「んあ? 全然。つか、お前はもっと食えよ。食べねえと大きくなれねえぞ」ははは、と吉彦は屈託なく笑う。
 相手の言葉に悪意はない、ただの冗談だと分かっているのに、自分が痩せ形なコンプレックスをチクチクと刺激される。
 俺だって、お前に負けねえようなガタイになりてェよ。心のうちでボソッと呟く。
 ふと、ベッドの脇にジャージの上下が放られているのに気づく。いつ脱ぎ捨てられたものなのだろう? ジャージのズボンには濃い灰色のボクサーパンツが絡まっている。そこから雄特有の体臭が膨らみ、性欲が刺激されるのを感じた。
 そのとき吉彦が立ち上がった。興奮したのを見透かされてはないかと冷や汗をかく。吉彦はウォールハンガーに掛かっていた薄手のパーカーを羽織り、
「煙草買い忘れてた。ちょっと買ってくるわ」
「お、おう」
 どうやら気づかれたわけではなかったようでほっとする。
 ……冷静に考えれば、気づかれるわけがないのだが。
「戻ったら、例の相談、聞いてくれよな」
「分かってる」
 戻ってきたら、吉彦は、どういった相談をするのだろうか?
 夢の中では鏡に自分の変な姿が映るのだと言って、その後は獣人になっていたが、またその時のようになるのだろうか? きっと勉強かサークル絡みの相談だろうなと思いつつも、夢の中での感覚があまりに鮮明だったため、また同じことになるのではないかと否定できない気持ちがあった。
 そして俺は、夢の内容が再現されるのを密かに期待してもいた。
「すぐに戻る」
 そう言い残し、吉彦は玄関を出て行った。ガチャンとドアノブの冷たい音が部屋に響く。ひとり残された俺は、おそるおそる、ベッド脇に放られていた黒色のジャージを手に取った。
 ドクンッ、ドクンッ、心臓の脈拍がすぐ耳元で鳴っているように緊張する。大丈夫、ちょっとくらいならバレない……。最低な行為だと思いつつも、吉彦のジャージに鼻を押し当てゆっくりと息を吸い込む。
「は、ァ」
 吉彦の汗が染みついたニオイに頭がクラクラする。ジャージを強く握り締め、ふうっと、もう一度深く息を吸う。ふと狼男と化した吉彦の姿を思い出す。俺が好きなのは優しく正義感のある吉彦であって、あんな残虐なことをする野獣ではないはず。
 それなのに――。
(すっげー、カッコ良かったな、吉彦……)
 ひどく欲情している自分がいた。
 あの豹変した姿、雄クッセェ臭い、何かも薙ぎ払えそうな圧倒的な力……。
 夢だったのか未だに信じられないほど生々しい感覚が残っている。想像するだけでチンポがギンギンに勃起した。
 吉彦のジャージを右手で顔に押し付け、左手で自分のそれを握った。
(ああ、吉彦ッ! 吉彦ッ!……)
 ゆっくりと扱き始めると、すぐ足先の方からゾクゾクとした感覚が走り、やべ、と思って腰を浮かした時には射精していた。
「……やっちまった」
 自分の行為にドン引きしながらも、ニオイを嗅ぐだけでは飽き足らず、俺は裸になって吉彦のジャージに袖を通した。吉彦とこれ以上の関係に発展することはありえないんだから、これくらい許してもらってもいいよな、と、呪文のように言い訳を繰り返しながら、センズリを扱く手を止められなかった。
「うッ、くッ、……はァッ」
 ジャージの太腿のあたりに精液が飛んだ。慌ててティッシュで拭き取ったものの変な光沢が残ってしまった。バレるかもしれない。だがそれも何だかどうでもいいような気がした。
 (このままジャージを盗んじゃえばバレねえんじゃねえの? 吉彦に訊かれたら、知らね、とか適当に答えてさ……。)
 精液をイチモツ全体に広げるように指で伸ばし、カリの下を握り締める。吉彦が自慰を繰り返しながら狼男に化す姿が、瞼の裏にチカチカと明滅する。あいつのチンポ、あの変な夢の中でしか見たことねえけど、きっとデカいんだろうなァ……。
 それに、狼男になる時の、苦しみながらも何度もイッちまう状態って、いったいどんな快感なんだろ?
 クソッ、と俺は舌打ちする。
 だってムラムラすんだからしゃァねえだろ、と俺は言い訳しながら自分のチンポを夢中で扱く。

 吉彦を捻じ伏せて犯すことができたら、どんなに心地良いだろう……。
 
≪お前、本当に吉彦が好きなのか?≫

 どこからか声が聞こえた。俺は驚いてベッドから跳ね起きる。慌ててジャージのズボンを穿き直し、ベッドから立ち上がって周囲を見回す。手を止めて周囲を見回すが、人は見当たらない。
≪ここだよ、ここ≫
 聞き覚えのある声だった。
≪お前の、中。お前自身≫
 もしかして――。
 ベッドの横の鏡に掛けられた柄物の布を捲ると、そこには嗜虐的な笑みを浮かべたもう一人の『俺』が映っていた。実際の違うのは髪色がオレンジがかった茶色であること、そして比べ物にならないほど逞しい身体であることだ。顔立ちは俺と同じだが、その冷たい表情はまるで別人のようだ。
 夢の中ですでに体験しているからか、大した違和感もなく受け入れている自分がいた。
「何なんだよ、お前は……」
≪つれねェーなァ≫
 続いてくぐもったような笑い声。
≪お前さ、吉彦のことを好きだと言いつつ、内心では嫉妬まみれなんだろ?≫
 ぎくりとした。図星だった。
「悪いかよ。しょうがねえだろ。俺が持ってないもん、あいつ持ってんだからさ」
 俺は鏡から目を逸らして俯く。
≪だよなァ、だって勉強も運動も出来て性格も良くてガタイもデカいって、羨ましい以外の何物でもないもんな≫
 その言葉をきっかけに、高校生の時の自分の姿を次々と連想した。勉強もスポーツも何もパッとするものがなく、いつも吉彦に助けられていた自分……。助けてもらって特別扱いされたようで嬉しいと思いながらも、自分なんか駄目な人間だと惨めな気持ちが尾を引くのも事実だった。
 そして、それは、今も似たようなものだ。
≪つくづくお前も変態だよなァ。
 そんな文武両道な心優しき吉彦クンが、快楽殺人のケモノに堕ちるのを見て興奮すンだから≫
「うっせーな。してねーよ」
≪夢の中では吉彦がいきなり獣人化しちまったが、違うよな≫
「…………?」
 何が言いたいんだ、こいつは?

≪本当はお前、自分の手で、吉彦をケモノに堕としてやりたかったんだよな≫

(あッ――。)
 自分の中でパズルのピースが埋まったような、何かがストンと腑に落ちたような気持ちがした。
≪お前は吉彦のことが好きなんかじゃない。助けてもらいながらも、惨めな気持ちにしやがってと思っている。本当は復讐したいとすら。なあ、お前、吉彦のこと、嫌いだろ?≫
 そんなことはない、と言い返そうとしたが、口を開けたまま何も言い出せなかった。言おうと思えば言えたのだが、自分自身を裏切るような後ろめたさがあった。
「あ…………」
 俺は実際、恩知らずなクソ野郎で、吉彦に性的に欲情しているだけの男なのだ。
≪お前が本当にやりたいことは何だ?≫
「ハアッ、ハアッ、」
(俺が、本当に、やりたいこと――?)
 ぱっと頭に逞しい獣人の姿が浮かんだ。チンポがガチガチに硬く勃起し、パンツの中で先走りに濡れているのが分かった。

 …………『アレ』に、なりたい。

 ごくん、と喉が鳴った。
 『アレ』になって、そして自分の手で吉彦をケモノに堕とす。
 原型を留めなくなるまで好きなだけ肉を貪って、貪りながらイキまくって……。
 
≪さあ、自分がやりたいことを言ってみろ。≫

「お、おれ、は――」
 狼男が喜々として人を貪る姿がフラッシュバックのように脳裏をよぎる。ケタ外れな力で相手を叩きのめして、捻じ伏せて。内臓にチンポを突っ込んで、ぐちゃぐちゃにかき回して。そんでもって相手の首筋に食らいついて、体中に真っ赤な血を浴びて。

「最強のオスになりてェ。んでもって吉彦をぐちゃぐちゃに犯してェ」

 いつの間にか、そんな言葉が口から洩れていた。

(……あれ? 俺、何言ってんだろ?)

 ズン、と、自分自身の声が腹の底に響くようだった。



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