『鏡』 上巻


(1)

「……あ?」
 シャワーを浴びてから、浴室内の鏡に付着した湯気を手で拭うと、知らない男が映っていた。
 誰だこいつ、と思ってから、眼鏡をかけていない目で、まじまじと鏡を見つめた。
 顔立ち自体は俺と同じだ。しかし、表情は似ていない。
 鏡のなかに映っている男は嗜虐的な笑みを浮かべ、目をわずかに吊り上げこちらを見ている。
 見られていると、恐怖のようなものを感じた。
 表情だけではない。髪の毛も、身体も、まるで違う。
 染色した覚えはないのに、鏡に映っている俺の頭は、髪の毛はオレンジのかかった金髪だ。つんつんした短い髪の毛は、表情と相まってヤンキー臭い。そしてアメフト選手のような逞しいガタイをしている。
 現実の、実際の俺は、マッチョという言葉とは無縁のガリガリな身体だった。自分の胸板と、鏡に映った逞しい胸板を見比べる。
 幻覚なのだろうか……?
 それにしても、なぜだろう。鏡の中の男を見て、俺はひどく興奮してしまう。
 手を股間に持っていき、激しく勃起したチンポを握って上下にこすった。

***
 
「うッ……」
 どうやら授業中に眠っていたみたいだった。
 目を覚ますと、英語の先生と目が合ってドキリとした。周囲を見回すと、まわりに座っていた奴らにも、何事かと見られている。
 俺は恥ずかしさのあまり顔が火照るのを感じ、「すいません……」と軽く頭を下げた。
 同時に、なんだ、夢だったのか、とほっとした。
 英語の先生は咳払いし、「えー、授業を受ける気がない人は、さっさと帰っていただいてもよろしいのですがー」と言った。すいません、と俺はもう一度小声で謝る。小さな教室だから居眠りが余計に目立ったのだろう。
 股間がむずむずするような感覚がする。夢で感じた性欲がまだ身体の底に残っているようで、頭がぼうっとして授業についていく気力が出ない。
 オナニーしてえ、と思ったとき、太ももの横に冷たいものが触れ、パンツがべたべたしていることに気づいた。どことなくイカ臭いにおいが鼻を突き、もしかして、と冷や汗が流れる。
 先生に断って授業を抜け出し、トイレの個室に鍵を閉めて、ハラハラしながらズボンを脱いだ。ボクサーパンツを下ろすと、ペニスの先が当たる部分に白くねばねばした液体が付着していた。
 夢精していた、らしい……。
 最悪だった。
 周囲の誰かに気づかれているかもしれない。だって、「うッ」と言って目を覚ました直後に、イカ臭いにおいを漂わせているなんて……。バレていると考えた方が妥当だ。
「しにてえ――」
 俺は思わず口に出し、個室の壁に額を当ててうな垂れた。
 不幸中の幸い、さっきの授業で、友達の吉彦は遠くのほうに座っていたが、どう思われているかはわからない。いずれにせよ、もうあの授業には出られない。いや、それでも必修科目だから休むわけにはいかないのだが……。
 ため息をついて、トイレットペーパーで何度も精液を拭う。
 チャイムが鳴った。
 休憩時間だ。次の授業の教室まで移動しなければならないが、精液が臭うかもしれない状況では出たくなかった。
 洗面所で手を洗って頭を上げると、その鏡には獣人が立っていた。
「……は?」
 声を失った。
 思わず後ろを振り返るが、俺以外は誰もいない。
 もう一度、鏡を見つめる。
 ――……何だこれは?
 そいつは二メートル近くあるんじゃないだろうか。頭は豹そっくりで、というより豹そのもので、身体には茶色っぽい斑点のある金色の毛がびっしりと生えている。「狼男」という呼び方を真似るなら、「豹男」と言うべきだろうか。
 完全に人間のシルエットと同じというわけではなく、背中は少し丸まっているし、手足は人間より明らかに大きい。身体の厚みも、横幅も、俺の倍近く……いや、それ以上あるんじゃないかと思われた。
「なあ、おい」
 突然トイレの出入口から吉彦の声が聞こえ、俺は「わっ」と間抜けな悲鳴をあげた。
 気がつけば鏡から豹男の姿は消えている。
「そこでずっと立ち止まってから、何してるのかと思った」
 俺は苦笑して、「別に、ちょっと考え事してた」と答える。獣人のことなど言えなかった。
 吉彦はこちらの肩をぽんと叩いて、
「今日授業終わったらさ、うち来ねえか? ちょっと相談したいことがあってな」
 吉彦の様子を見るに、精液臭のことは噂になっていないようだった。
 ほっとして、「わかった、行く」と答えた。

(2)

 吉彦は、大学の最寄駅の近くにある四階建てのアパートに住んでいた。
 階段を上ってリノリウムの通路をすすんだ突き当たりの部屋がそれだ。
 入ってすぐ目の前に台所があり、流しにはカップラーメンの容器や皿やコップやコンビニの袋に入ったゴミなどが乱雑に置かれている。ベッドの脇にはゴミ袋が口を結ばれた状態で三つ置かれ、そこから饐えた臭いが漂っていた。
 吉彦は黒い革のジャケットをベッドに脱ぎ捨て、長袖Tシャツ姿になった。
「もうちょっとは掃除しろよ」と言うと、吉彦は短く「はッ」と笑い、冷蔵庫から2リットルペットボトルのコーラを取り出し、コップに注いで俺に渡した。
 吉彦は高校の頃からの親友だ。
 いじめられていたところを助けてもらって、それから友達になった。
 吉彦は俺より一回り身体が大きく、それは同じ大学に入学してからも変わらない。
 おまけに俺よりも遥かに頭がいい。
 高校の頃は生徒会役員に立候補したり学級委員を務めたりと、普段の朴訥な話しぶりからは信じられないくらい積極的なところがある。
 俺は勉強ができるほうではなかったのだが、吉彦と同じ大学に通いたいが一心に必死に勉強した。端的に言えば、吉彦のことが好きだったのだ。
「島崎さ、今日授業中に何かウッて呻いてたじゃん? あれ何だったの?」
「いや、あれは……ただの居眠りだから」
 吉彦は、「へえ」と答え、それから急に真面目な顔になって、
「今から俺、すげえアホなこと言うけどいい?」
「何だよ、アホなことって」
「鏡に映る自分の姿が、何か変なことってないか?」
「……例えば?」
「例えば、自分と似てるけど、全然違う姿が映ってる、みたいな」
 ドキッとして、受け取ったコーラをこぼしそうになった。
「俺、頭おかしいのかな……。すまん、変なこと言って」
 おそるおそる、俺も白状することにした。
「……実は、こっちもそういうことあったんだよ。大学のトイレでな」
「マジかッ。……ああ、やっぱりなー。実は、トイレでお前を見たとき何か挙動がおかしかったから、もしかしたら俺と同じものを見たのかもって、ちょっと期待してたんだよ」
 吉彦は嬉しそうな目をこちらに向けた。
「それで、一緒に鏡見てくんねえかな?」
「ハアッ!? 何でだよ」
「もう気味わるくてさ、ずっと鏡を直視できねえんだよ。誰かと一緒だったら、ちゃんと直視できると思ってさ。一人じゃ怖いんだよ。頼む!!」
 俺が答えるよりも先に、吉彦はベッドの横の全身鏡に掛けられていた布を取り払った。
 反射的に顔の前で腕を組んで目を閉じる。
「…………」
 うっすらと片目を開け、腕の隙間から鏡を一瞥する。
 ……鏡に映っているのはいつもの自分の姿だ。
 目の前の鏡に関しては、おかしなところが何もない。
「なあ、お前、なんか見えるか?」
 吉彦は言った。俺とは対照的に、ひどく緊張しているらしい。声がかすかに震えていた。
「いや、自分の姿しか見えねえよ。今は何もおかしいところはない」
「そ、そうか……。俺は……アレが映ってるよ」
 心臓が、ドクンと鳴った。
「アレって……?」
「その……俺と顔が似ててさ、というか……同じ? お前、見たことあるなら、わかるだろ……」
 吉彦の額には、うっすら汗が滲んでいる。
 現実にいる吉彦と、鏡に映った吉彦の姿を見比べるが、何も違いがわからない。他人からは分からないのかもしれない。つまり、これは、吉彦にだけ見えている幻覚なのだろうか? 俺が、鏡の中で獣人を見たように。
「この前は見えたんだが、今はなにも見えねえよ……」俺は言った。
「来るな……来るなあッ!」
 吉彦は鏡に向かって叫んだ。
 俺は呆然とその様子を見つめた。
 吉彦はハアハアと息を荒げながら床にうずくまり、「やめろ……やめろてくれ!触るな!」と言いながらも、なぜか自分から服を脱ぎ捨てていく。そこには吉彦以外の姿は見えない。かちゃかちゃとベルトをゆるめる音が聞こえた。
「お前、なに脱いでんだよ……」
 俺の失笑まじりの声は、もう吉彦には届かないらしい。
 返事はなく、ただ、「やめろ、やめろ」とつぶやく声と荒々しい呼吸が部屋に響いた。
 同じ年くらいの男子の勃起したチンポを、はじめてまじまじと見つめた。こんな状況だというのに、大きさが俺より上であることに嫉妬を覚えてしまう。
「はあ、はあ、はあァッ……」
 吉彦は自分で勃起したそれを握り、上下に扱き始めた。棹には太い血管が絡み付き、亀頭はパンパンに膨らんで、表面がツルツルと白く光っている。
 扱くスピードはどんどん速くなっていく。
「うッ、ぐッ――」
 手の動きが止まったあと、吉彦は軽く腰を浮かし、苦しそうな顔をして、あっという間に射精した。どろどろした白い液体が俺のズボンと床に飛び散り、後ずさる。
「な、なにやってんだよ……」
 顔をそむけそうになったが、視線を必死に吉彦の身体に集中させた。目をそらしてはいけないような、そんな気がした。
 吉彦はさっきと違い少し嬉しそうな、気持ちよさそうな、だらしのない顔をしていた。
 部屋に、くちゅ、くちゅ、という卑猥な音が響く。吉彦は自分の精液でべとべとになった手でペニスを再びこすり始め、「やべえ、やべえよ」と叫んでいる。
「あ、ああ? そうだよ、お、俺、俺、も、お前みてえになりてえッ――」
 誰と会話しているのか、わからなかった。
「もっと、俺を、やッ……ぐッ」
 吉彦のペニスの根元がびくびくと震え、さっきのを大幅に上回る量の精液が弧を描いて、奴自身の顔や胸に飛び散った。きれいに日焼けした胸や額には大粒の汗が浮かんでおり、顔には快楽にほころんだ表情が浮かんでいた。
 ドクン、ドクン、ドクン、という吉彦の心音がこっちにまで聞こえてくるんじゃないかと思った。
 俺はなぜか、吉彦が床でオナる姿を見て、ひどく興奮していた。
 吉彦の身体は、気のせいかさっきより逞しくなっている。ビクビクと怒張するペニスを手で押さえ、さらに射精を繰り返した。もう扱かなくても簡単にイってしまうらしい。
「やッ、うッ、た、たすけッ、あッ、ああッ、がッ、ガアアッ」
 吉彦は裂けそうなくらい大きく口を開け、目の縁に涙を溜めて叫んだ。
「ガアアアッ、グッ、ウゥゥ――」
 叫び声がだんだんと獣じみてきた。チンポは臍まで反り返り、先走りがドクドクと溢れている。
 吉彦は何かの到来に備えるかのように両腕で頭を押さえた。
「グ、グオ、ウグアアアアアアア――ッッ!!!」
 叫び声に呼応するかのように、吉彦は汗を飛び散らした。胸筋がミシミシと音を立てながら分厚く盛り上がり、腹筋にスウッと六つの割れ目が浮かび上がり、背筋が逆三角形を作るみたいに左右へと広がっていく。
 頭を押さえていた腕は、小刻みに震えながら筋肉で倍近くに膨らんでいった。
 首も太く、肩幅もグっと広くなり、一回り、二回り、身体がどんどん分厚く、大きくなっていく。発達したのは筋肉だけではない。ゴキッ、ゴキッと骨の鳴る音とともに、身長も伸びているようだった。
 胸筋の割れ目の中央のあたりからヘソの周囲にかけて、一直線に今までなかった短い体毛が生え揃った。
 太腿やふくらはぎもパンパンに張ったかと思えば、筋肉の線がモコモコとあらわれ、陸上選手のような鍛え上げられた逞しい下半身に変化していく。
 スポーツ刈りだった髪の毛は額に髪がかかる程度に伸び、茶色のチクチクした顎髭が生えそろった。陰毛も前より濃く長くなり、それに負けんと言わんばかりに、ぐ、ぐぐ、と上へ押し上げられるようにペニスは長さを増していき、竿の部分は一回り太くなり、カリはテニスボールのようにパンパンに膨らむ。睾丸は垂れ下がるようにずっしりと重みを増した。
「うッ、ぐッ、う、ああッ――」
 ――ドシュッ!ドシュッ!ドシュウウウウウッ!
 太く長く成長したペニスからは勢いよく精液が噴きあがり、逞しくなった胸板と腹筋に白濁した液体を飛び散らせた。


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